HISTORY かね七の歴史

江戸時代
水橋と北前船

かね七が工場を構える富山市の港町、水橋。

海や大きな川に面する水橋は
北海道との間を行き来する商船「北前船」
が頻繁に往来していました。

この「北前船」の影響で水橋は海の交通の要として栄え
水橋や岩瀬などの港町を通じて
北海道からにしん、たら、昆布などの多くの海産物が富山にもたらされました。
これがのちに、昆布巻やかまぼこなど
今日までの富山独自の食文化を形成するきっかけとなりました。

※井田家所蔵古写真・福井県立若狭歴史博物館提供
北前船 ※井田家所蔵古写真・福井県立若狭歴史博物館提供

北前船とは?

北前船とは、江戸時代中期栄えた大阪と食材の宝庫北海道(蝦夷)の間を商品を売り買いしながら航海する商船のことを指します。
千石船という1,000石(約150t)の米を運べるほど大きな船で、大阪・北海道間を一往復するだけで千両(約6,000万〜1億円相当)の利益を得ることができたといわれます。
そんな一攫千金を狙える北前船で商売をすることは、当時の庶民の夢物語でもありました。

明治時代
かね七が創業

石黒豊次郎 ▲創業者の石黒豊次郎

明治17年、水橋に住んでいた
かね七創業者の初代・石黒豊次郎は
この「北前船」を利用し富山の産物を販売しようと考えました。

そこで、「石黒商店」として創業し
いわしの煮干・塩干魚などを仕入・加工し、
「北前船」を通じて北海道や東北などの北国へ輸出する商いを始めました。
これが、「かね七」の原点です。

明治時代の頃

大正・昭和時代
製造業へ事業を拡大

石黒豊次郎は煮干の卸業にとどまることなく
花かつお・削り節を製造する製造業にも参入します。
その後戦争の影響により
原材料の配給制で生産の縮小を余儀なくされ
さらには医薬品工場の疎開工場先として
工場とその従業員を世話するなど
数々の困難に立ちむかい、活躍した時代でした。

そんな時代ながら、家族や地元水橋の人々と支え合い、
2代目社長の石黒重次が医薬品製造販売企業である、
現在のグループ企業「大協薬品工業(株)」を創立しました。
「医食同源」として人々の生活を医薬品・食品の両面から支え、
グループとして今日まで活動しています。

大正・昭和の頃
大協薬品工業㈱の外観

グループ会社
大協薬品工業の設立

太平洋戦争の最中、空襲から工場を守るために
工場を疎開させる動きが全国で活発化しました。
そんな中、かね七には医薬品製造を手掛ける工場が疎開しており終戦で疎開工場が引き揚がると同時に、働き場所に困り果てる人が続出しました。
そんな人々の雇用や、戦後の医薬品不足で困窮する人々の助けとなるために、医薬品業界への参入を決意しました。
これを発端として、「大協薬品工業(株)」が誕生しました。
現在では医薬品の製造販売を担う会社として、
医薬品という観点から皆様の健康を支えています。

大臣賞受賞

厚生大臣賞、
農林大臣賞の受賞

優良工場として、昭和40年に厚生大臣賞を受賞・
日本農林規格認定工場に指定。
また、昭和48年には花かつおの商品が農林大臣賞を受賞。

昭和・平成時代

昭和後期・平成時代
夢のある商品づくりを掲げて

「こんな商品が欲しかった!」というお客様の声に耳を傾け、商品化するためにより多角的な商品製造販売に乗り出します。

いか風珍味、鰹パック、そうざい(昆布巻)、ほたるいか珍味などの人気商品を次々と発売し、営業拠点も仙台、札幌、東京、名古屋などに支店を新設しました。

「夢のある商品づくり」を企業理念として全国に安心・安全でニーズのある商品をつくり続けています。

そして、1984年には創業100周年を迎え大々的に式典を執り行い、会社名を現在の「かね七株式会社」に変更しました。

平成・令和

最新の機械設備

ISO22000認証、ハラール認証など、国際基準に準じた衛生管理による製造ラインを整備。
最新技術を活かした受託製造も行っております。

令和
そして未来へ

日本を代表する、世界で認められた食文化「だし」

代々引き継がれてきたこの伝統の「おいしさ」を
世界中に広げています。

現在、アメリカ、中国、ベトナム、シンガポール、ミャンマー、
台湾、タイ、ブラジルなど様々な国々に販路を拡大しています。

夢のある商品をお客様の食卓へお届けし
味つくり100年から、200年、300年を目指し
かね七は躍進し続けます。

page top